Sonaーあなたを送る歌ー

 私が一番緊張するのは、舞台に立って目の前に並ぶお客さんを見る瞬間。

 あわてて礼をするとペースが乱れてしまうから、自分でもゆっくりすぎないかと思うほどゆっくりと、深々と頭を下げる。頭をあげるときには、しっかりとした笑顔を客席に向ける。

 息をゆっくり吐きながら楽器に手をかざすと、指先があるべき場所へ自然とおさまるのを感じる。それを感じるたび、楽器と自分が結びつきあっているのがわかって、自然と頬がほころぶ。昔はうまく指がおさまらなくてヘマをしてしまうことがあったけれど、何度も繰り返すうちに、深く考えず指にまかせればいいことがわかった。

 最初の一音が肝心だ。すぐに弾き始めてはいけない。構えたばかりのときは、人のたてるかすかな物音やざわめきがある。しかし長く構えていると、そのうちに波が引くように会場が静かになる。

 演奏はいつ始まるんだろう。

 人々が不思議に思い、いつになったら弾き始めるのかと私に注目すると、すべての音が遠ざかるしんとした瞬間がおとずれる。その一瞬をとらえて、私は演奏を始める。

 曲が始めると、指が勝手に弦の上を跳ね、次々にメロディが紡がれる。私は曲の持つ力を信じて、ただひたすら、そこにこめられた思いや美しさが伝わるよう願いながら演奏をする。

 始まってしまえば、終わるまではあっという間だ。すべての曲を弾き終えたあと、私は心地よい脱力感を味わいながらそっと席をたった。スカートの裾をつまみあげ、お客さんにお礼を言うつもりで、ゆっくりと頭を下げる。

 拍手を打ち鳴らす人々は、感極まって泣いていたり、隣の人と嬉しそうに笑いあっていたりと様々だ。

 今日もいい演奏ができた。

 そう感じながら、エトワールを大事に抱えて、そっと舞台を降りた。

 

 SonaIoniaで開催されたとあるパーティーで、依頼演奏をこなしたところだった。

 彼女の演奏はIoniaで一番美しいと評判で、演奏をするたびその評価は高まる一方だった。近頃はひっきりなしに演奏依頼が届き、毎日のように舞台に立つ日々だ。

 演奏が終わって楽屋に戻ると、レースをあしらった優雅な紫のドレスに身を包んだ女性が、彼女を待っていた。

「おつかれさま、今日もすばらしかったわ」

 Lestaraはそう言って、Sonaに笑いかけた。

 LestaraSonaの養い親である。彼女はSonaの類まれな才能を見出し、孤児院からひきとってその才能を磨く場所を与えてくれた。そうでなければ、Sonaはただの口のきけない孤児のまま、今でも孤児院から出ることはできなかっただろう。

 SonaにとってLestaraは、ただ孤児院から引き取って音楽の手ほどきをしてくれただけの人ではなかった。Sonaは彼女がSonaのことを細やかに愛し、大切な娘のように扱ってくれているのを感じていた。だからこそ、SonaのほうでもLestaraのことを信頼し、深い敬愛の情をいだいていた。

Lestara様。少々お話が」

 楽器を片づけていると、メイドが楽屋の扉をあけて、Lestaraを呼んだ。

「ごめんなさい、少し行ってくるわね。演奏が終わったあとは、会場で自由に食事をしていってほしいと言われているわ。あなた先に会場へ行く?」

 そう聞かれて、Sonaはコクリとうなずいた。口がきけないからと言って、いつまでもLestaraにおんぶにだっこではいけない。一人でも大丈夫というところを見せたかった。Sonaは少し不安に思いながらも、パーティー会場へ続く廊下へ出た。

 パーティーはバイキング方式で、様々な料理が所狭しと並べられた長机が壁際にあった。鶏肉を丸ごと香ばしく焼き上げたものや、つやつやときらめく褐色のソースがからめられた豚肉。その隣には鮮やかに透き通った魚の切り身が並べられ、シャンデリアの光をはじいている。

 Sonaはそれを見て目を輝かせた。演奏はエネルギーを使うので、エトワールを弾くようになってから彼女は健啖になった。おかげで孤児院時代はぼうっきれのようだったのが、今ではふっくらと健康的に肉がついてしまった。

 孤児院暮らしの時代に、とれるだけとって食べられるだけ食べるという鉄則をたたき込まれたSonaは、いろんな料理を皿に山盛りにした。歩いていると声をかけられるので、笑顔と握手で応える。彼らもSonaが声を失っていることは承知していたので、挨拶と演奏の感想を述べたあとはそっとしておいてくれた。洗練された人たちらしく、相手のことをわきまえた立ち居振る舞いに、Sonaは心の中で感謝した。

 机について皿の料理を平らげていると、ふいに声をかけられた。

「ずいぶんたくさん食べるんだね」

 そう言われて顔をあげると、にこやかな美男子が立っている。見るからに高級そうな灰色のスーツを着て、細い金の鎖がたれたネクタイピンをしていた。

 Sonaがそっと頭を下げると、「ああ、君口がきけないんだっけ」と、男は無遠慮な言葉を投げかけてきた。困ってしまって、曖昧に笑っておく。

「さっきの演奏すごくよかったよ、よければちょっと外に出て話さない?」

 その言葉の中に、巧妙に隠された下卑た欲望が潜んでいるのを聞き取って、Sonaの目は厳しくなった。彼女の鋭い耳を言葉で欺くのは、不可能な話だった。

 男を無視して皿の上の料理に注意を戻すと、「なぁ、いいだろう」と手の甲に手を重ねられた。その瞬間、Sonaは激しい怒りに襲われて、その手をパッとはらった。心臓が息苦しいほどにのたうっている。

 彼女はこういうやり口が大嫌いだった。相手が女であることや口がきけないこと、立場が弱いことを利用して強引に迫る。目の前にいる人間が、自分より下で抵抗できないと思っているからこそ出る傲慢さだった。

 怒りにきらめく目でSonaが男を見ると、女にそんな風に拒絶されたことがなかったのか、男は「ちっ、なんだお前」と不快そうに舌打ちをした。Sonaは男とにらみ合った。周囲がちらちらと二人のほうをうかがいながら、ざわめきだす。

 焦れた男がSonaの手首をつかもうとすると、さっと横から手が伸びてきた。男がとっさにその手を振りほどこうとするが、伸びてきた手はがっしりと手をつかんだまま離さない。

「もうしわけありません、この子が何か粗相をいたしましたでしょうか?」

 Lestaraは、申しわけないという気持ちを前面に押し出した声色で問いかけた。しかしその細腕は筋が浮くほどに力を込めて男の手首を握り締めている。

 ふっと彼女が力を緩めると、男がぶんと腕を振ってその手をほどいた。

「なんでもありませんよ」

 男は憤懣やる方ないといった様子で手首をさすりながら、人込みに消えていった。

「まったく……しつけのなってない金持ちのボンボンは、子どもじみてて厄介ね」

 そう言いながら、LestaraSonaの肩にそっと手を置いた。Sonaは膝に手を置いたままうつむいている。

「ほら、そんな顔するもんじゃないわ。ここはまだお客様の前よ」

 そう言われて、Sonaははっと顔をあげた。周りの人たちが、気づかわしげな表情を浮かべてSonaのことを見ている。その中には、すごくいい演奏だったと涙ながらに伝えてくれた老女や、ぜひうちにも演奏に来ていただきたいと快活に握手をしてくれた壮年の男性もいた。

 Sonaがその人たちに頭を下げると、「お騒がせしてもうしわけございません。皆さまどうぞ楽しいひと時へお戻りください」と、Lestaraがとりなしてくれた。

 人々はまだ少し彼女たちのことを気にしながらもパーティーへ戻り、Sonaはほっと一息ついた。

 Lestaraは会場にいる人たちを見るともなく見ながら、「言葉はつかえなくても、物事をおさめられるようになりなさい。どんなトラブルが待ってるかわからないんだから」と、諭すように言った。

 Sonaはぐっと唇を引き結んで、大きくうなずいた。

 

 その日の帰り道、Lestaraはふところから手紙を出した。

「これね、メイドが持ってきたの。宛先が私の住所だったから開いてしまったのだけど、中身はあなたに向けたものだったわ。昔あなたがいた孤児院からよ。受けるかどうかは、中身を読んであなたが決めなさい」

 そう言われて、Sonaは手紙を開いた。

Sonaへ。お久しぶりです、元気にしていますか。私たちはあなたが音楽の才能を開花させて、華々しい舞台に立っていることを嬉しく思っています。さて、今回あなたにこうして便りを送ったのは、院長先生があなたに会いたいとしきりに言うようになったからです。院長先生はいま、床にふせってらっしゃいます。もうあまり長くはないでしょう。お願いだから誤解しないでください。私たちはあなたが有名になったから、孤児院に来て慰めのために演奏をしてほしいと言っているわけではありません。ただ死の淵に近づいている院長先生が一番強く望んでいることを、叶えて差し上げたいだけなのです。あつかましいお願いかもしれませんが、もしもあなたがそうしてもかまわないと言ってくれるなら、どうか一目、院長先生に会いに来てください」

 文章を目で追ううちに、Sonaの目に涙があふれてきた。孤児院で過ごした日々が、自分でも思いがけないほど懐かしく心によみがえってくる。

 Sonaは「どうか一目、院長先生に会いに来てください」という部分を指さして、ぶんぶんと縦に頭を振った。

「わかったわ。じゃあ明日の予定はキャンセルしておくから、行ってきなさい」

 予定を一つキャンセルするために、彼女はどれだけの人に頭を下げなければならないのだろう。Sonaはもしも自分が口をきけても、何も言葉にできないだろうと思いながら、せめて感謝の気持ちだけでも伝わってほしいと、その手を握った。Lestaraはなにも言わず、Sonaの背中をぽんと叩いた。

 

 次の日の昼下がり、Sonaはエトワールを背負って孤児院の門の前に立っていた。門には緑青(ろくしょう)のふいた鐘がさがっていて、叩くとくぐもった無骨な音がした。

 (私がいたころとかわらない鐘。だけどこれ、叩いているほうからすると、こんなので聞こえるのかと思っちゃうくらい鈍い音しかしないのね)

 孤児院の運営はいつだってかつかつだ。育ち盛りの子どもたちの食費や、すぐにダメにしてしまう服を買い替えるためのお金。シーツだってお皿だって、しょっちゅう買い替えなければならない。門の鐘や建物の修繕までは、なかなかお金がまわらないのだ。ようやく少し大人になって、シスターたちが毎日どんなに大変な思いをしながら子供たちの面倒をみていたかが、わかるようになった。

 孤児院に入る前からしんみりしていると、重そうに軋む音とともに扉がひらいて、背が低くてふっくらしたシスターが出てきた。ほっぺたが林檎のように赤くて、愛嬌のある笑顔を浮かべている。

「はい、どちら様で……まぁ! Sona!」

 シスターは目をまんまるくして驚いた。

「久しぶりね、ずいぶん大きくなったのねえ。あなたあんなにやせっぽっちだったのに、いろいろと大きくなっちゃってまぁ……」

 シスターの無遠慮な言葉と視線に、Sonaは顔を赤らめた。どんな顔をしていいかわからなくて、自分を抱くように二の腕を掴む。

「あら! ごめんなさいね、ちょっと品がなかったかしら。それにしても懐かしいわ。あなたいつもそうやって、二の腕をぎゅっと握ってたわよね」

 シスターが口元に手を当てて笑うと、頬にかわいらしいえくぼができた。そのえくぼを見て、Sonaは昔よくこのシスターにかまってもらっていたのを思い出した。ほかの子どものくだらない笑い話から、シスター自身の昔の失敗談まで、Sonaに向かって楽しそうに話していたのをおぼえていた。Sonaはいつも、シスターに話したいことがたくさんあった。

 しかしSonaが字を覚えて、「もしも自分に声があれば、きっと楽しいおしゃべりができるのに」と書いて見せると、シスターはこう言い放ったのだ。

「あらぁ! 話すよりもただ聞くほうがずーっと難しいのよ? あなたはその難しいことをしてるんだから、気にしなくていいのよ。それに人はみんな自分の話を聞いて欲しがるものなんだから、黙って聞いていられるあなたはえらいわよ」

 そう言われて、Sonaはしゃべれない分、相手の話をじっくりと聞くようになった。そうしているうちに、さみしさを抱えている孤児の子どもたちは、Sonaにこっそりうち明け話をするようになった。

 口がきけないことで浮いていたSonaは、シスターの言葉で子供たちの中に居場所を作ることができたのだ。

「立ち話しててもしょうがないわね。手紙を読んできてくれたんでしょう? ダメでもともとと思って手紙を出したのだけど、まさかほんとに来てくれるなんてねぇ……きっと院長先生もお喜びになるわ。さぁ、入って」

 そう言われて、Sonaは扉の内側へ足を踏み入れた。中はがらんとして薄暗く、子どもたち特有の乳くさいような、日向くさいような匂いがした。

「不思議ねえ、ここを出て行った子がこうして戻ってくるなんて」

 シスターは頬に手を当てて、感慨深そうに呟いた。

「ここは、見送るだけの場所だから……」

 聞き取りづらい声でボソリとそう言ってシスターの顔は、思いもよらないほどくすんで見えた。捨てられたり、親が死んでしまった子を引き取って、その子たちがようやく明るい笑顔をするようになったと思ったら、どこかへもらわれていく毎日。それは果たして、むなしさを感じずにいられるような日々なのだろうか。

「ここですよ」

 シスターの声に、Sonaははっと顔をあげた。見慣れた院長室の扉が目の前にあった。

「院長先生はすっかり弱っちゃって、中のベッドで横になっているわ。まぁ、なんというか……手でも握って励ましてあげてちょうだい」

 そういうと、シスターはコンコンとドアをノックした。

「どうぞ」

 シスターに目くばせされて、Sonaはドアを開けた。

 中に入ると、正面に引き出しのたくさんついている大きな木製の机があった。左側には壁いっぱいのサイズの本棚があり、擦り切れたマットが敷いてある。本棚の手前には応接用のソファと背の低いテーブルが並んでいる。そこまではSonaが覚えている通りだったが、右側に置いてあるベッドは記憶になかった。

 そちらに歩いていくと、ベッドに横たわっていた老女が驚いて目を見開いた。

「まぁ、あなた……Sona?」

 起き上がろうとして、ごほごほとせき込む。Sonaはあわてて走り寄って身体をささえ、背中側にクッションを置いて楽に寄り掛かれるようにした。

(院長先生の体って、こんなに薄かったっけ)

 とっさに手を伸ばした時、その頼りなさに驚いた。Sonaが孤児院にいたころは、細身だけれどエネルギーのつまった力強い身体をしていたのだ。自分が成長する間に、同じだけ院長が年をとったことが感じられて、胸の底にもやのようなものが渦巻いた。

「確かに会いたいとは言ったけれど、まさかほんとうに……シスターたちが最近なにやらこそこそ企んでいたのはこういうことだったのね、まったく困った人たち」

 口調とは裏腹に、院長は嬉しそうに口元をほころばせた。

「それにしてもほんとうに立派になったわね、Sona

 まじまじと見ながら言われて、Sonaは曖昧な笑みを浮かべた。自分がそんなに立派な何者かになれている自信がなかったのだ。

 そんな胸中を見透かしたように、院長は「しゃんとしなさい、あなたは立派よ」とSonaの背をたたいた。

「あら、いやだわ。せっかく来てくれたのにいきなり説教臭くなっちゃって。わざわざきてくれてありがとうね」

 そこで、トントンと外からドアをノックする音が聞こえた。ドアを開けると、Sonaを案内してくれたシスターが、湯気の立っているお茶をもってきてくれた。Sonaがお茶の乗ったお盆を受け取ると、ベッドの脇に小机をもってきてくれる。

「ありがとう」

「いえいえ、どうぞごゆっくり」

 シスターはパチリと片目をつぶってみせて、部屋から出て行った。

 お盆の上のお茶からは、湯気といっしょにいい匂いがたちのぼっていた。Sonaがかぎ慣れたお茶の匂いだった。湯のみを持ち上げると、分厚い外側を通して温もりが手に広がる。

 静かな部屋にお茶をすする音だけが響く。Sonaは静かに湯のみからお茶を飲む院長の、増えた皺や染みの浮いた手を、見るともなく見ていた。

「実はね」

 院長が口を開いた。

「あなたに一目会いたかったのは、さみしかったからなのよ」

 Sonaが首をかしげると、院長はため息をついて、湯のみを持つ手をおろした。

「あなたがうちの玄関口で寝ているのを見つけたのは私なの。そんな風にうちにくる子はたくさんいたけど、楽器のケースの上で泣きもせずに、静かに見つけられるのを待っていた子は初めてだったわ。それからあなたが話せないってわかって、みんなでうんうん唸りながら養い親を探して、だけどなかなか見つからなくて。十になるまでうちにいた子もあなたが初めてだったわ。それで情が沸いちゃったのね、親がつかないならいっそうちで働いて、うちのシスターになればいいって思ってたのよ」

 そこまで一気に話して、院長は恥ずかしそうに笑った。

「私、いつの間にかあなたの親代わりのつもりになってたのね。だからもらわれて行って成功して、よかったって思う一方で少しさみしかったのよ」

 そう言われて、Sonaは胸がぎゅっと苦しくなった。院長やほかのシスターたちを親のように思っていたのは、Sonaもいっしょだったのだ。

 自分に言葉がないことがもどかしかった。自分も院長のことを親のように大切に思っていたと、孤児院で過ごした日々は自分にとっても大切な思い出なのだと伝えたかった。

 Sonaはエトワールの入ったケースを開いた。院長が「Sona?」と怪訝そうな顔をするのを無視して、弦をはじいて調律する。

 やがてSonaの指先は、ぽろぽろと音を紡ぎだした。それは暖炉でぱちぱちとはぜる火を眺めるような、あたたかな音色だった。そこに陽気に跳ねる音が飛び込んでくると、穏やかであたたかなメロディーが、騒がしくて愛嬌のある楽しげな音楽になった。

 Sonaは孤児院で過ごした日々を思い出しながら、指が跳ねるのにまかせて音をつないでいった。シスターたちと過ごす、穏やかな夕べ。わいわい騒ぎながらほかの子どもたちと食べるご飯。

 いつまでも続くかに思えた騒がしいメロディーは、少しずつゆっくりになって、夜空で星がささめくようなしゃらしゃらとした音になった。凛とした高音が、流れ星のようにその中を横切る。

 やがて音楽は、再び穏やかな雰囲気を取り戻した。曲の中で揺らめく暖炉の火が踊るように揺れ、周りに集った人たちは心地よさそうな笑みを浮かべる。そこにはほっと心を安らがせてくれるような、安穏とした光があった。

 Sonaが美しい余韻をこの世にとどめようとするかのように、慎重に曲を終えると、院長は静かに拍手をした。頬には涙がつたった跡がある。

 はっと気づくと、Sonaの頬にも涙がつたい落ちていた。

「そう、そうね……ありがとう、Sona

 優しくSonaの手をとり、院長はまたひとすじ涙をこぼした。

「不思議ね、あなたの歌う声がちゃんと聞こえてきたわ。この手と楽器が、あなたの声になったのね」

 そっとSonaの手を撫でる手に、Sonaは昔のことを思い出した。悲しかったり苦しかったりするとき、なぜか院長はそれを察して、そっとSonaの頭を撫でてくれたのだ。そうされると不思議と心が緩んで、Sonaは静かに涙をこぼしたものだった。

 院長はそんなとき、「さぁ、涙が止まったら無理にでも笑いなさい。笑顔はね、心にとりついたもやもやをどこかへ吹き飛ばしてくれるんだから」と必ず言った。そして自分自身で、にっと笑って見せた。

 ――きっと院長先生自身にも、どうしようもない思いや悲しい出来事があったんだ。だけどそういうときほど、無理やりにでも笑って見せていたんだ。

 そう気づくと、院長の快活な笑顔に、人生を歩んできた人の強さが隠れている気がしてきて、Sonaは彼女を深く尊敬するようになったのだった。

「ありがとう。まったく、身体が弱ったからって心まで弱るなんて、私らしくなかったわね! あなたに笑われないように、もう少しだけわがまま坊主どもの面倒を見てやるとするわ」

 院長はそう言って、顎をあげて笑って見せた。

「あなたに会えてほんとうによかったわ、Sona。今までも、そしてこれからも変わらず、あなたのことを愛しているわよ」

 その言葉にSonaはまだ涙をこぼしかけて、それは違うなと感じた。だからSonaも院長のマネをして、ぐいっと上を向いて、しっかりと院長と目を合わせて笑顔になった。

「それでよし」

 院長は満足げに頷いた。

 

 それから少しして、Sonaのもとに院長の訃報が届いた。訃報には、「院長はあなたに会ってから元気を取り戻し、子どもたちごと私たちのことを厳しく叱りとばして、優しく抱きしめてくださいました。お墓の場所を地図にしたためてあるので、ぜひ一度顔を見せてあげてください」と書かれていた。

 Sonaは休みの日に、地図の場所へ行ってみた。そこは小高い丘の上で、シスターたちがお金を出し合ったのだろうか、シンプルだけれど立派な墓石がたっていた。

 墓石の前に花束を置いて、Sonaは空を見上げた。抜けるような青空から風が吹いてきて、Sonaの長い髪の毛を揺らす。

 彼女は墓石に向かって、かすかに口を動かした。そしてにっこりと笑った。

 くるっと振り返ると、胸を張って歩きだす。そのうちに抑えきれなくなったのか、ステップを踏むように走り出した。

 

 

"Allegrissimo(ごく快活に)”

 

 

 Sonaは一番好きな音楽記号を心に浮かべて、踊るように遠ざかっていく。

 背後では、風に揺れる木々に囲まれて、墓石が静かにまどろんでいた。