Caitlynー人生をかけた難事件ー

 ほとんど電気の消えたPiltoverの警察署の中で、ぐったりと机に突っ伏して寝ている女の姿があった。彼女がかすかに身じろぎすると、積み上げられていた資料が崩れて頭の上に落ちる。

「う、んん……」

 むっくりと起き上がってボサボサの髪をかき上げると、女は大きくため息をついた。机の上に散らばった資料を、ぼんやりと眺める。

 肘をついて額に手を当て、書きかけの書類をなんとか仕上げると、彼女はもう一度ため息をついた。

「はぁ……今日はもう帰ろう……」

 荷物をまとめて部屋から出ようとすると、窓に自分の顔が映りこんでいるのが目についた。ぼんやりとした窓越しでもわかる、青白いやつれた顔。手入れもしていないほつれた髪の毛。まるでゴーストのようだった。

 映りこんだ自分を睨みつけたあと、Caitlynは頭を振って部屋を出た。

 

「そう」

 最初に口をついて出たのは、冷静をよそおったそんな言葉だった。続いて「じゃあ私たちおしまいね」と、感情のにじまない平坦な声。

 話があると呼び出されて、恋人ににぎやかな夜のレストランへ呼び出された。その段階でこれは来るなと思っていたので、なりゆきに驚きはしなかったけど、失望感が胸をひたした。

「君も俺も仕事が忙しいし、互いのための時間をとれないだろう?」「いっしょに居ても疲れていてすぐに寝ちゃうし」「これ以上関係を続けても、なにも得られないよ」「だからごめんね」

 そんな風に理由を並べ立てる恋人の顔を見ながら、犯罪者も一般人も言い訳をするときは同じような顔をするのだなと、心のどこかで冷静に考えていた。

 Caitlynは優秀な警官だ。ほんの少しの手がかりから犯罪の全貌をあばき、犯人を追い詰める。そんな彼女が、自分の恋人の行動や言葉から何を考えているのかを見抜けないはずがなかった。

「もういいわ」

 そう言ってCaitlynは立ち上がった。

「一つ忠告してあげるわ。恋人といるときに、ほかの女と連絡は取らないほうがいいわよ。女は敏感だし、あなたのだらしなく緩んだ表情、頭の中がまるわかり」

 男の顔が凍りつく。それを見たCaitlynは自分の中の熱が冷え切って、石のように灰色に固まっていくのを感じた。

 机に食事の代金をおいて、Caitlynはさっさと店を出た。

 帰り道を歩きながら、「今回の原因はなんだったのかしら」と、頭の中で反省会を開く。

 初めは順調だったと思う。彼は私の仕事に理解を示してくれていたし、その上でいい関係を築けていた。様子がおかしくなったのは、かかりきりにならなきゃいけない事件ができて、二週間くらい会えなかったあと。つまりいつもと同じ。ちょっと会わない間にさみしくなった男がよそに女をつくって、それでおしまい。

 ――私、男運ないのかしら……いや、そうじゃなくて、男を見る目がないのよ。

 そこまで考えて、ため息がこぼれるのをおさえきれなかった。

 家に帰りつくと、「あら、おかえりなさい」と母親が出迎えてくれた。しかし何かを話す気分にはなれなかった。

「ただいま」

 そっけなくそれだけ言って自分の部屋に直行し、カバンを放り投げて外着のままベッドに倒れ込む。自分らしくないと思いつつも、そのままだらしなく寝入ってしまいたい気分だった。

 ぼんやりと横たわっていると、付き合う前のときめきや、付き合い始めたころの歯がゆいような幸せな思い出がよみがえってきて不愉快だった。触れ合った手、唇をかわしたこと、重ねた肌の温かさ。ぐっと唇をかみしめて起き上がり、服を脱ぐ。

 シャワーを頭から浴びると、濡れていく自分の髪をつたって生暖かい湯が流れ落ち、排水溝へ吸い込まれていくのが見えた。

 ――くだらない。私には能力があって、それを活かす仕事をしている。私にとって重要なのは犯罪者を捕まえることで、男を捕まえておくことじゃない。

 Caitlynは考え事を振り払うように、ぎゅっと蛇口をひねって浴室を出た。髪の毛を乾かして寝間着に着替え、今度こそベッドに倒れ込む。

 ――さあ、明日も仕事だ。私にはなすべきことがあるのだから。

 心の中でそう自分に言い聞かせて、彼女は暗闇の中に意識を手放した。

 

 それから二週間、Caitlynはひたすら働きづめだった。なにもしていないと、別れた男のことを考えてしまうからだ。仕事に没頭していればすぐに楽になると、経験からわかっていた。

「おいおいカップケーキちゃんよぉ、そんなにキリキリしてどうしたんだよ」

 チョコバーをかじっているViに、のんきな言葉をかけられる。無視していると、「あれか、男にフラれたか」といきなり図星を突かれた。

「…………」

 無言でじろっと睨むと、「おー、こわこわ」とおどけて、両手を挙げて降参のポーズをとる。

「お前さぁ。そんな青白くなるまで仕事するよりも、ぱーっと飲んで騒いじまったほうが楽になるぜ?」

 呆れたように言われて、「うるさいわね、これが私のやり方なんだから放っておいて。それよりも、さっきから手元にある書類、進んでないようだけど?」と、思わずケンカ腰で答えてしまった。

「あたしは実行犯だからさ」

 Viは腕を組んで椅子にもたれ、そしらぬ顔だ。もともと彼女に書かせるような書類は大したものじゃないし、重たい案件の合間に休憩がてらすませればいいだろう。そう思って、Viの机にある書類を手に取る。

 Viがあわてて「おいおい、いいって」と書類をとりあげた。

「ったく、お前がそんなんだと調子狂うぜ」

 Viは頭の後ろをがりがりとかき、ため息をついて書類仕事を始めた。

 Caitlynはしばらくそれを見るともなく見て、「じゃあ書類はお願いするわね」とViに伝え、事件の調査に出た。

 

 日が落ちてから帰ってくると、すでにViは帰ったのか、部屋には人気がなかった。どこか遠くの部屋から、膜を挟んでいるように、はっきりしない話し声が聞こえてくる。

 しんとした部屋に立っていると、まるで自分がいる場所だけ世界から切り離されてしまったようだった。

 ――私はこれからどう生きていくんだろう。私の人生はいったいなんなのだろう。

 そんな風に考えてしまったとたん、足元が揺らいで、崩れ去っていくような恐怖をおぼえた。

 毎日、何かに追い立てられるように仕事をしているせいで、机の上がひどく散らかっている。少し整理をしてから帰ろうと思い立ち、ファイルや書類をまとめる。

 ふと、机の引き出しから紙がはみ出しているのに気が付いた。自分の性格上、そんな風に雑なことをするはずがないので、気になって引き出しを開ける。

「食え」

 汚い字でそう書かれた紙の上に、チョコバーが乗っていた。誰の仕業かは考えるまでもなかった。

「まったく……」

 Caitlynは苦笑しながらそれを持ち上げた。ピッと袋を破いて一口かじる。ザクザクとした食感と糖分の塊のような甘さは、ストレスをかみ砕いて溶かしていくような心地よさだった。

「あんがい悪くないわね」

 唇についたチョコをペロリと舐めとりながら、Caitlynは目を見開いた。そのままぱくぱくと食べきってしまう。引き出しに入っていた紙を持ち上げると、裏にもなにか書いてあるのに気づいた。

「明日は8時までに仕事を切り上げて入り口に出とけ、さもないと後悔するぜ!」

 しばらくその犯罪予告のような文章を眺めてから、彼女はふっと笑った。あの単純な同僚が考えることなどお見通しだが、今回だけは乗ってやろう。そんな気分になったのだ。

 チョコバーの包み紙をぐしゃっと握りつぶしてゴミ箱に落とし、Caitlynは犯行予告をカバンにしまって部屋を出た。

 

 次の日、時間通りに警察署の入り口に出ると、真っ赤なオープンカーがCaitlynを待っていた。その車は、彼女がたまに駐車場で見かけては、警官がこんな車に乗るのはいかがなものかとひそかに眉をひそめていた車だった。

「この車、あなたのだったの」

 Caitlynが呆れて口を開くと、「おう、イカしてるだろ」と、Viが自慢げな顔をする。

「乗んな、今日はあたしがいいとこに連れて行ってやる」

 そう言って彼女はニッと笑った。

 Caitlynがおとなしく隣に乗り込むと、Viは車を発進させた。

 

 Viはドアの上に肘をついて片手で運転しながら、「Cait、お前はこの街をどう思う?」と聞いてきた。

「そうね――私が警察になってから、いくつかの大きな犯罪グループを潰して、犯罪率はずいぶんさがったわ。けれど突発的に起こる個人の窃盗や殺人の割合が増えているし、そういうものは事前に防ぎようもないから、その対策が必要ね。それから私たちに挑戦するような犯罪も目につくわ。今のところ大きな被害はでていないけど、もしもこれから市民を巻き込むような大規模なテロが起きたりしたら……」

「おいおいおいおい、ちょっと待て! お前はほんとうにクソがつくほどマジメだな」

 Viが途中でCaitlynの言葉をさえぎった。赤信号で車が止まったタイミングで、ビシッとCaitlynの鼻先を指さす。Caitlynは突きつけられた指を、眉をしかめながら見た。

「じゃあお前のために、カンタンな質問にしてやる。お前はこの街が好きか?」

 そう聞かれて、Caitlynはあごに手をあてて考え込んだ。彼女にとってPiltoverの街は家族や友人の住む大切な場所であり、同時に数多くの犯罪がはびこる厄介な街でもあった。そんなPiltoverで暮らしていて、うんざりするときもあればうれしいときもあった。

「よくわからないわ、嫌いじゃないと思うけど」

 Caitlynはあごから手を離して、肩をすくめた。

「そうか」

 そういったきり、Viは黙り込んでしまった。

 やがて車は市街地を抜けて、明かりのない道を走り始めた。てっきりバーにでも連れていかれるのだろうと思っていたCaitlynは、不安になってきた。

「ちょっと、どこに行くつもり?」

「それはついてのお楽しみさ」

 Viはアクセルを緩めることなく車を走らせた。こんもりとした木やゴツゴツした岩が、車のライトが切り取る中にぬっと出てくるたび、不気味な化け物のように見える。無言でしばらくドライブを続け、やがてViは郊外の高台で車をとめた。

「さて、今夜はここでパーティーだ」

 彼女は車をおりて、後部座席をごそごそとやりだした。出してきたのは、クーラーボックスとピザの箱だ。

「お前のために奮発してやったんだ、ありがたく飲めよ」

 そう言ってクーラーボックスをあけると、中にはシャンパンが入っていた。大量の氷の中で濡れているビンは、見るからに冷たそうだ。

「ほんとはウィスキーかウォッカでいっぱいやりたかったんだけどよぉ、カップケーキちゃんには刺激が強すぎるかと思ってな」

 ひっひっひと笑いながら、Viは指の間にシャンパンのビンを二本ともはさみ、手早く栓抜きでふたをあけて、片方をCaitlynに渡す。Viは片手にビンを持ったまま、器用に膝の上においたピザの箱を開けた。

「カンパーイ!」

「カンパイ」

 キン、と二人のビンがうちあわされる音が、夜空に響いた。

 静かな夜だった。かすかに吹く風が雲をはこび、切れ間から月が顔をのぞかせる。高台からは、夜でもこうこうと明るいPiltoverが一望できた。シュワシュワと口の中ではじける冷たいシャンパンが喉を滑り落ちていくと、通ったあとがアルコールでじんわりと熱くなる。

 しばらく二人でそうしていると、不意にViが口を開いた。

「こうして見てると、Piltoverってのは明るい街だと思わねえか?」

「そうね」

「だがな、真ん中からずーっとみていけば、ふっと暗くなるあたりがある。あたしはあの辺のスラムで育ったんだ」

 普段のViとは違う静かな口調に、Caitlynは耳をかたむけた。

「生きるためにはなんでもやった。そうしねえと生きていけなかったからな。だけどそのうち、そういうのが気に食わなくなって、毎日イライラしながら過ごすようになった。かと言ってほかに生き方なんぞ知らねえし、どう生きていけばいいかわからねえ。それに気づいたとき愕然としたよ。あたしは死ぬまでこのままなのかってな」

 Viは彼女に似つかわしくない暗い目をして、虚空をにらんでいた。ピザをひときれ丸ごと放り込んで、しばらく口を動かした後、ごくんと飲み込んでまた話し始める。

「そんなとき、鉱山に仕事をしにはいったら仲間がひでえ失敗をして、トンネルに閉じ込められちまった。そこから抜け出すのなんざわけなかったが、そうしたらそこで働いてたやつらが閉じ込められたままだ。あたしはヒーローを演じてみることにした。そこであのガントレットを作ったってわけさ」

 そう言ってViは、彼女にしてはめずらしい自嘲的な笑みを浮かべた。

「それからはお前も知ってる通り、悪人相手に大立ち回り。お前が逮捕してくれなかったら、今頃どっかで野垂れ死んでたかもな」

「そうね。あなたときたら、よくもまあ一人であれだけ暴れられたものだわ」

「へっ」

 そう言ってViは照れくさそうに鼻の下をこすった。

「今の褒めてないわよ」

「あ? そうなのかよ……まぁいいや。とにかくあたしは、この仕事につけてよかったと思ってる。合法的にクソッタレどもをぶん殴れるからな、まさに天職ってやつだ。あたしがなんで悪人を嫌うかわかるか? それはな、あいつらがマジメにやってるやつらから、甘い汁だけをすすろうとしやがるからだ。自分がそいつらの食いぶちを奪えば、そいつらが死ぬかもしれねえってわかっててな。こんな卑怯なことはねえ」

 バシンと手のひらに拳を打ちつけて、Viは続ける。

「マジメにやってるやつらが損を見るのはおかしいだろ、そうだよな? だからあたしは、あのクソッタレどもが絶滅するまで、握った拳を開くつもりはねえ。ママにかわって拳骨をくらわせて続けてやる」

 Caitlynは相槌もうたずに、黙ってViの話を聞いていた。

「なぁ、Cait。あたしはお前のクソがつくほどマジメなところが気に食わねえことが多いが、同時に尊敬してもいる。あたしには絶対にできないことだからな」

 そこでViは言葉を切って、くっくっとおかしそうに笑った。

「お前おぼえてるか? 初めて会ったとき、お前はガントレットをつけたままのあたしが閉じ込められてる牢屋にみじんも迷わず入ってきて、『あなた、その力をPiltoverのために使いなさい。そうするなら、あなたをこの牢屋から出してあげるわ』なんて言い放ったんだぜ? あたしはそんなお前にほれたから、ここで働くことにしたんだ」

「そんなこと言ったかしら?」

「言ったさ」

 しばらく思い出し笑いをしたあと、Viはふっと表情を引きしめた。

「だがよ、そのマジメさで自分を追い込むのはやめろよ。そんなやり方じゃ、助けられた方だって救われねえぞ」

 そう言って、ViはまっすぐにCaitlynを見た。その瞳のなかにある揺るぎない光は、Caitlynを射抜くようだった

 鉄格子ごしに会ったときも、Viはこの瞳でCaitlynのことを見ていたのだ。自分は間違っていないことを確信している、明るくて強い光。それを見て、Caitlynは彼女ならこの街の平和を守るために一役買ってくれると、確信したのである。

 しかし今は、そのまっすぐな光がうとましかった。Caitlynは視線を足元に落とした。

「私はいま、人生をかけた難事件に巻き込まれているの。困ったことに、この難事件に犯人はおらず、被害者もいないのよ。それなのに事件だけは起こってしまっていて、私はその調査をしたくないばかりに、他の事件にかまけている。だって手がかりすらないんだもの、いくら私でもそんな事件は解決できないわ」

「それなら聞き込みをすりゃあいい。たとえば、あたしなんかに」

 Viはそう言って、びしっと親指で自分をさしてみせた。

「あなたに……? なかなか面白い冗談を言うわね」

「冗談じゃねえよ!」

 Caitlynが目を細めて言うと、Viが憤慨した。

「事件と違って、人生にゃ答えなんてもんはねぇんだ。だから自分で作っていかなきゃならねえ。お前、そういうことから逃げるなよ」

「…………」

 Caitlynはなにも言わなかった。Viはぐいっとビンをあおって、中のシャンパンを飲み干した。

 星空の下にたたずむ二人を、夜風がくすぐるように撫でていった。

 

 Caitlynが帰ると、母が「あら、おかえり」と出迎えてくれた。

「ただいま、母さん」

「あら、何かいいことでもあったの?」

「えっ、どうして?」

「だってあなた、ここのところ毎日死にかけのゾンビみたいな顔してたのに、今日はなんだか血色がよくて生きてるみたいよ」

 母のとぼけた言葉に、Caitlynはおもわずふふっと笑う。

「ゾンビはもう死んでるし、私はちゃんと生きてるわよ。今日は少しお酒を飲んできたから、それで顔色がよく見えるのかも」

「あら、そんな言葉で母親をだませると思ってるの?」

 彼女の母はニヤリと笑った。Caitlynの観察力と思考力は、研究者である母から受け継いだものなのだ。

「かなわないわね」

 Caitlynはそう言って、それから少し躊躇しながら、「時間があったら、少し話さない?」と切り出した。

「娘のためなら、時間を操るhextechだって作るわよ。でも幸い今夜は時間があるから、その必要はなさそうね。まぁ、まずは着替えてシャワーを浴びてらっしゃい、話はそれから」

 母はそう言って、帰ってきたばかりのCaitlynを追い立てた。彼女は苦笑しながら母の言葉に従い、ゆっくりと湯につかって体を休めてから、リビングへ向かった。

「ねぇ、母さんは研究で忙しい毎日を送っていたのに、どうして父さんと結婚したの?」

「そんなの、好きだったからに決まってるじゃない。それにね、しばらく付き合っていくうちに、そうするのが自然だという気がしたのよ」

「それってわかるものなの?」

「わかる人もいるし、わからない人もいるわ。まぁ、私があの人と結婚するのがいいと感じたのは、単純にお付き合いが長く続いたからなんだけどね」

「どういうこと?」

「私は研究詰めで、恋人なんかほったらかしにしていることが多かったわ。そうするとね、男は物足りなくなってほかの女のところにいっちゃうの。そのたびに私は傷ついて、それを忘れるために研究に没頭することを繰り返して、そのうち恋人なんかいらないって思うようになったわ。そんなとき、学会で偶然お父さんに出会ったの。研究者と政治家じゃ話が合わないだろうって思ってたのに、お父さんとはやけに話があって、いっしょに食事をするようになったわ。私が距離をとろう、関係を深めないようにしようと思うたびに、お父さんは絶妙なタイミングで私を誘い出して、楽しい時間を過ごさせてくれたの」

 そう言って、母は遠い昔を夢見るように、視線を宙にただよわせた。

「そんな関係がしばらく続いて、この人は私のことをどう思っているんだろうと思い始めたころ、お父さんに告白されたわ。私は躊躇したけど、お父さんのことをもう好きになっちゃってたのよ。それで断れずに、きっとすぐに終わりになると思いながら、オーケーしたわ。ところがどっこい、お互いに仕事やら研究やらで忙しくて、会う頻度は結局付き合う前と同じくらい。いっしょに寝ようと思ったって、どちらかが急に呼び出されたりしておじゃんになることもしばしば。そんな関係がしばらく続いた後、お父さんがある日とつぜん言ったのよ」

 そこで母は、口に手をあてておかしそうに笑った。

「『俺たち、このままじゃろくに二人でいることすらできやしない。せめて二人で同じ家に住まないか? そうすれば少なくとも、寝るときは同じ屋根の下だ』ってね。私が思わずそれってプロポーズかって聞き返すと、お父さんは愕然とした顔をして、『そうか、これはプロポーズだ。俺は君と結婚したいらしい』って言ったのよ。まったく、そんなプロポーズってないわよね」

「ほんとね、ロマンもへったくれもないわ」

 Caitlynと母は、目を見合わせて、ひとしきり声をあげて笑った。それはCaitlynが思ってもみなかったような話で、だけど自分の両親らしいと考えずにはいられなかった。

 しばらく笑ったあと、母は「あなた、ムリして頑張らなくていいのよ」と、さとすように言った。

「あなたは私に似て、ちゃんとやらなくちゃって頑張っちゃう子だからね。自分が好きでないことにも成果を出そうとして、それでダメになると傷ついてしまう。好きじゃないことなんて、そうそううまくいくわけないわよ。だから誰かのことを気にして、そんなことまで頑張る必要ないわ」

 そう言うと、母はCaitlynの方に優しく手を置いた。

「あなたが自分のしたいことに一生懸命になっていれば、他のことは自然とついてくるわ。もしもついてこないのなら、それはその時にあらためて考えなさい。自分がしたいことを成し遂げた後にね。仕事も恋もなにもかも順調なんて、そんなのあり得ないんだから」

 どうやら、母にはすべてお見通しだったらしい。

「母さんにはかなわないわね」

 そう言って、Caitlynは肩に置かれた手をそっと握った。その手は華奢であっても脆さを感じさせない、力強さを秘めていた。

「あなた、今の仕事が好きなんでしょう。それなら行きつくところまで行ってみなさいな。そうすれば次にたどり着きたい場所やしたいことが、見えてくるはずよ」

 母の言葉に、Caitlynは目を閉じてうなずいた。

 

 

 次の日、Caitlynがいつものように仕事に出ると、「ようカップケーキちゃん、今日はずいぶん顔色がいいじゃねえか」とViが絡んできた。

「そうね、ここ数日なかったくらいに晴れやかな気分だわ。昨日はありがとう」

 Caitlynの素直な感謝の言葉に、Viは「たいしたことはしてねぇよ」と顔をしかめて見せた。

 調査のためにカバンの中身を確認し、愛用のライフルを点検する。すべて準備が整っていることに満足してほほえむCaitlynを見ながら、Viはたずねた。

「そんなすっきりした表情してるってことは、昨日言ってた難事件とやらは解決したんだな」

 そう聞かれて、Caitlynは背中にライフルをかけた。扉に手をかけて振り返る。

 

I'm on the case(捜査中よ).

 

 それだけ言ってCaitlynは部屋を出た。窓から差し込む光に照らされて、彼女の背中のライフルがきらりと光をはじいた。