Ashe―願いの先に―

 「はぁ……」

 Asheはズキズキする頭をおさえながら、椅子に肘をついた。

 つい先ほどまで、彼女はAvarosanの各地の領主たちと会議を行っていた。激化するFrostguard族とWinter's Crow族からの攻撃に関する対策や、穀物の備蓄に関する議論は、朝から晩まで続いた。領主たちは唾を散らして自分の意見を主張するので、なんとかおさまりがつくようなだめ、話をとりまとめていると、毎回疲れきってしまう。ようやく解放された彼女は、自分の居室に戻るやいなや、椅子にぐったりと倒れ込んだのだった。

「大丈夫ですか? なにか少しでもお腹にいれてください」

 侍女のシーラが気づかわしげな表情で、スープが揺れる器を差し出す。

「ありがとう」

 Asheはそう言いながらスープを受け取った。立ちのぼる湯気を吸い込むと、喋りつかれて固まってしまった喉元を癒すように、温かい匂いが胸に満ちた。そっと一口すすると、熱いスープが喉を滑り落ちて、じんわりと腹にしみ込んでいくのを感じる。

「おいしいわね」

 そう言って笑うと、シーラはほっとしたように笑顔を見せた。

 

 Asheの胸には、幼い日に憧れた物語が今でも根付いている。それは遥か昔。Freljordを統一した、Avarosaという女王の物語だ。

 彼女はかつてバラバラだったFreljordの地を一つにとりまとるため戦い、ついに女王として君臨するに至った。彼女のもとで民たちは、平和と幸福を謳歌したという。

 人々はそれをバカげた話だと笑っていたが、Asheはその話を信じ、憧れ、自らが族長として立つときに彼女と同じ志を掲げた。Freljordにバラバラに散った部族を統一し、恒久の平和をもたらそうと。

 しかし彼女がその志を語ると、部族の一部は彼女に長たる資格はないと判断した。そして彼女を殺害しようとしたのだ。

 彼女が狩りに出たときに、彼らは計画を実行にうつした。しかしそれを邪魔したのは一羽の鷲だ。Asheは鷲の鳴き声によって危機を逃れ、Avarosaの墓へと導かれた。そしてその墓石の下に眠る、氷から削り出され、氷の魂をそのまま閉じ込めた美しい弓を見つけた。

 彼女は追ってきた襲撃者たちをその弓でもって打ち払い、部族のもとへ帰った。部族の者たちは古代Freljordの女王によって祝福された伝説の弓を携えたAsheを長として迎え、彼女はFreljordの統一へ向けて足を踏み出したのだった。

 それから数年。彼女は瞬く間に仲間を増やし、AvarosanというFreljordでもっとも大きな国を築くにいたった。

 最初の頃はよかった。彼女はまず仲の良い部族の族長のもとへ向かい、互いに助け合う協定を結ぼうと申し出た。もちろんはじめはこころよい顔をされなかったが、何度も訪れるうちに互いを理解し、和睦を結んで仲間となった。そうして生まれた繋がりが次の繋がりを生み、すこしずつ、けれど着実に彼女の仲間は増えていった。

 Asheは彼らを力で支配することを嫌い、あくまで対等な関係を結んだ。困ったときは力を合わせながら、それぞれの民をそれぞれが治める集合体であればいいと考えたのだ。しかし民同士が交流し、少しずつ垣根が薄れていくにつれ、無理が生じるようになった。民が混じりあえば部族の掟や習慣も混じりあう。生まれた混乱は民の生活を軋ませ、やがて彼らは声をあげはじめた。

「部族をつなぐというならば、長をいただく一つの国とならねばならぬ。Asheよ――Avarosaの血を引く族長よ。そなたは我らの王となる覚悟があるか」

 彼女は少しずつ大きくなっていくその声を、言葉もなく聞いていた。
 ――私に王たる器があるだろうか。

 内部の混乱は抑えようもなく大きくなっていた。このまま放っておけば、やがて伸びきった皮が千切れるように、繋がりは断ち切られてしまうだろう。

 ――きっと私は迷っているのだ。自分がたった一人の王となれば迷いは許されない。だから部族を緩やかに結び、それぞれの判断に任せようとした。一人で責任を負うことを逃れようとした。しかしそれでは、民が一つになることはあり得ない……。

 彼女はAvarosaと同じ道を歩むことを覚悟した。女王として君臨し、Freljordを統合して一つの強固な国とする。それが彼女の理想となったのだ。

 Asheは部族長を集めた。

「私たちは多くの部族の集合体となりました。ですがそれによって、部族のしきたりや掟が混じりあい、混乱が起きています。その混乱を止め、より一つの安定した形を築くため、一人の王がこの集合体を国として治めていくことを望みますか?」

 彼女の言葉に、部族内部の混乱をおさめることに辟易していた族長たちは頷いた。

「ならば私は、女王の座につきましょう。新たなる国の名は"Avarosan"。過去にFreljordを統一した女王にちなんだこの名の下で、恒久の平和を築きましょう」

 やがてAsheは、ひと際大きな石造りの城を建て、そこで即位式を執り行った。

 セレモニーの一つとして、Avarosaの弓で天高く光の鷲をうち上げるため、彼女は城のテラスへ出た。女王となる人を一目見ようと押しかけた民たちを見おろした瞬間、自分の体がゆっくりと、鋼の衣のような重責に締め付けられていくのを感じた。

 Asheは震える手でAvarosaの弓を引き絞り、天に向けた。常冬の地の、色の薄い抜けるような青空を見つめながら、彼女はひらめくような熱を胸の内に感じた。

 ――私は王となる。そして民たちに、平和と幸福を与えねばならない。

 そう感じた瞬間、彼女の震えが止まった。彼女は挑むように薄青い空を見つめながら、鷹を放った。

 

 壁にかかっているAvarosaの弓が、暖炉の火に照らされて光る。あの日から新しい制度や法についての会議に追われ、ろくに狩りにも出られなくなった。

 広い領土を一人で治めるのは無理があり、族長であった人のなかから、この人こそはという人物を選び出して領主に据えた。しかし今度は彼らがそれぞれの領地のことばかり主張するので、別の苦労が増えてしまった。

 ――ああ、雪深い森へ出て、まっさらな冷たい空気に触れたい。無駄に人の命を奪う戦ではなく、自分たちの食べる分だけの獲物を狩るために弓をひき、気の置けない仲間たちと温かい鍋を囲みたい。

 そんな願いが、いつからか胸の中から離れなくなった。

「あの、やはり少しお休みになられたほうがいいのでは……」

 シーラが気づかわしげに問うてくるのを、Asheは手を振って止めた。

「そうも言っていられないわ。今日の会議の内容をまとめて、明日には領主たちに命令をくださなければならないもの」

 Asheは領主たちの書いた報告書をめくりながら、いつから自分は年上の部族長に命令をくだせるような、大した人物になってしまったのだろうと思った。

「姉さま!」

 不意にシーラは懐かしい呼び方でAsheを呼んだ。

「その呼び方はやめなさいと言ったでしょう」

 Asheがたしなめると、シーラはぐっと眉根を寄せた。

 

 シーラはAsheがもともといた部族の娘で、Asheのことを姉のように慕っていた。狩りから帰ると、「姉さま、今日の獲物はなあに?」と目をキラキラさせながら駆け寄ってくる少女を、Asheも妹のようにかわいがっていた。シーラに弓の才能はなく、なによりも食べていくことを重んじる部族では、武器を扱えない者は荷物のように見られることが多い。しかしそんな中で、彼女は不思議とみんなに愛されていた。

 シーラはよく気が付く少女で、誰かが怪我をしているのを隠していると、必ずと言っていいほど「どこか悪いところがあるでしょう」と小さな頬をぷっと膨らませて聞いてきた。傷は恥だと考えられがちだが、愛くるしく唇をとがらせた彼女にそんな風に言われると隠す気が失せて、誰もが「バレたか」ときまり悪げに笑うのが常だった。そして彼女は「小さな傷だってあぶないんだからね! そうやって油断してると、あっという間に氷が傷口から入りこんじゃうんだから!」と、まるで母親のような口ぶりでお説教をしながら、手当てをしてくれるのだ。

 部族の中には、怪我をするとシーラに手当てをしてほしいばかりに彼女のそばをうろつき、「アホタレども! うちの娘に色目つかってんじゃないよ!」と、彼女の母親に怒鳴りつけられる者もいた。そうしてシーラの母に手当てされていると、みんなが同じように苦虫をかみつぶしたような顔をするものだから、AsheとCillaは毎回腹を抱えて笑い転げたものだった。

 シーラが城仕えの募集に現れたとき、Asheは驚いて目を見開いた。
「あなたまだ十になったばかりでしょう。お母さんのところに居たらいいのよ」
 Asheがそう言うと、シーラは見慣れた表情をした。つまり、小さな頬をぷっと膨らませた。

「姉さまはすぐに無理をするから心配です。お母さんにはわたし以外にも子供がいます。それに休みには必ず家に帰ります。でも姉さまはお母さまも死んでしまって、兄弟もいなくて、お城の中に家族がいないでしょう? だからわたしがおそばにいます」

 そう言い切って自分を見つめる少女の目には、家族のもとを離れる寂しさと、それでも自分で決めたことを譲らないという頑固な意思が光っていた。

 少女がひたむきに自分を思ってくれていることが、思いがけない温もりをともなって心に響いた。

「バカね」

 Asheはしょうがない子というように笑いながら、目元をぬぐったのだった。

 

「イヤです、姉さまは姉さまです。姉さまは無理をしすぎです、これ以上無理をすればぜったいにどこかが悪くなります」

 そう言いながら、シーラはお得意の頬を膨らませる表情をした。

 Ashe自身にもそれはわかっていた。誰も足を踏み入れていないなめらかな雪原のようだったAsheの肌は、疲れ切って青白く透き通る氷のようになっていた。

 しかしそうは言っても、目の前に山積みにされている課題から自分が逃げれば、領主たちは王としての資質を疑うだろう。自分に逃げ場はないのだ。

「休めるものなら休みたいけど、そんな暇はないのよ。対応しなきゃいけないことだらけだし」

「そうですね、ですから明日はシーラがうまくやってみせましょう」

「あなたが!? 無理よ!」

 Asheは顔をしかめた。

「そうでもありませんよ。どうせ領主たちは自分の欲求を押し付けてきたのでしょう? 食べ物がたくさんある森林地帯の領主はそれを独り占めしたがり、凍りついてまずしい土地の領主は助けをうったえてくる。その上に、Frostguard族やWinter's Crow族の攻撃からこの国を守っている兵士たちが、豊かな森林地帯の領主のところばかりから集められる不満と、兵役に民を出せば人手がたりなくて飢えてしまうというまずしい土地の領主からのお願い。戦をし、彼らを滅ぼしてしまうべきだという声と、戦はすべきではないという声」

 Asheは目を見開いた。

「あなた、どうしてわかるの?」

 シーラはふふんと得意げに鼻をならした。

「ちょっと勉強すれば、あの領主たちが言いそうなことくらいわかるのです」

 昔から聡い少女だとは思っていたが、まさかここまでできるとは思っていなかった。

しかし驚きが過ぎ去ってみれば、残るのは変わらない現実だけだ。

「だけどそれがわかったからって、明日休めることにはならないじゃない」

「いいえ、姉さまは明日休まなければなりません。むしろそうしたほうがいいのです。領主たちはいま熱くなっていて、おそらく姉さまが何を言っても納得しないでしょう。それに姉さまがみなに優しいせいで、彼らは自分が重要に思われていると確信できないでいます」

 まるで大人のように話しはじめたシーラの言葉を、Asheは黙って聞いていた。

「ですから、姉さまは明日体調を崩して休んでいることにします。かわりに領主の一人ひとりに侍女がついて、彼らのお世話をするようご命令なさってください。そして城のすべての場所をひらき、城下町を自由に見れるように取り計らってください。領主たちが一日ゆっくりとくつろげるように、私たちが全力を尽くします」

「でも、あんまりにも単純じゃないかしら」

「単純だからこそいいのですよ、男なんて単純な生き物なのです。女王は体調を崩しながらも自分たちを手厚くもてなし、心を砕いてくれている。一日かけてそう感じさせれば、少しくらいは頭もやわらかくなるでしょう」

 そう言うシーラに、Asheは甘えたい気持ちになっていた。確かに無理を続けているせ

いで、領主たちへの対応もおざなりになっていたし、自分のためにも彼らのためにもそれはいいアイデアかもしれない。

「じゃあお願いしようかしら」

 Asheの言葉に、シーラは「おまかせください!」と胸をたたいたのだった。

 

 次の日。まだ夜も明けきらぬ時間に、城の裏からフードを目深にかぶった影が滑り出た。影は路地を走り抜け、宿屋の馬小屋につながれた馬にまたがり、そのまま城下町を抜け出した。

 十分に距離をとり、あたりに人気がないことを確かめて、影はフードを外した。その下から現れたのは、久しぶりに馬にまたがり外の空気に触れて上気したAsheの顔だった。しばらく走っていると、彼方の空が薄赤く染まり、朝日が顔を出した。その光をうけたAsheの瞳は美しくきらめき、なつかしい、広い世界を自由に駆ける喜びが全身からあふれだしていた。

 走る馬から伝わる振動と温もり、背中に背負った弓の重たさ、頬を切る風の冷たさ。体を覆っていた王という重責やしがらみが、皮膚からパリパリとはがれて空気の中に散っていくようだった。この瞬間、彼女はただのFreljordの民だった。

 Asheが向かったのは、生まれ育った部族の村だった。

「多少は他の部族もまじっていますが、フードで顔を隠してお母さんの家に行けば、大ごとにはならないはずです。お母さんは察して秘密を守ってくれるでしょうし」

 明け方の村はまだシンとしていた。家々の中から、かすかに生活の気配がする。シーラの母の家にむかい、トントンと扉を叩くと、「なんだい、こんな朝早くに」と懐かしい声が聞こえた。

 その声を聴いた瞬間、胸にこみ上げてきた熱にうろたえていたら、ドアが勢いよく開いた。

「あら、まあ、まあ! さあ入んなさい、ちょうど朝ごはんができたところだから」

 顔を見た瞬間にすべてを察したのか、シーラの母は優しげな笑みを浮かべながらAsheを中へいざなった。

 粗末だけれど穏やかな温もりに満ちた家は、Asheの記憶にあるのと少しも変わっていなかった。

「うわあ久しぶり!」「元気してた?」「バッカ、シーラが元気がなくなったらここに来させるって言ってただろ」「あ、そっか。じゃあ元気じゃないの?」「そんな聞き方するやつがあるかよ!」「ええ、ごめん……ていうか敬語つかわないとダメかな?」

「敬語なんかいいわよ」

 Asheはクスクス笑いながら答えた。シーラの兄弟たちはみな大きくなっていたが、中身はちっとも変わっていない。

「さあ、まずは朝ごはんだよ」

 母親の言葉で、Asheたちは大きな机を囲んで座った。机の上に並んでいるのは、小麦をこねて焼き上げたやわらかいパン
と、具だくさんのシチューだ。手を合わせて一口食べると、優しい甘みが口の中にひろがった。

「――おいしい」

 不意に、城で食事をするとき、ちっとも味わおうとしていなかったことが胸につまされた。食事は時間をとるめんどくさい作業の一つでしかなくなってしまっていたのだ。

 涙がこぼれそうになって我慢したら喉につまってむせてしまう。その背中をシーラの母が優しくさすってくれた。何もかもが親しみ深くて、自分がこれまですごしてきた城での暮らしがいかに味気ないものだったのかを思い知らされた。

 食事が終わると、シーラの兄弟たちは狩りの準備を始めた。

「Asheも行くよな?」

 長男にそう聞かれて、Asheは一も二もなくうなずいた。

 

 人目につかないようフードを目深にかぶったまま、Asheは森へ出た。兄弟たちは気を使ってくれたのか、Asheを一人にしておいてくれた。雪に覆われた森の空気を吸い込むと、体の内側によどんだ澱が洗い流されていくようだ。

 しばらく森を進むとぽっかりと開けた空間に出た。まっさらな雪が敷き詰められている。すぐに狩りをする気にもなれず、Asheはその真ん中まで歩いて行って、ドサリと倒れ込んだ。

 木々に囲われて切り取られた空に、薄い煙のような雲がたなびいている。目を閉じると、耳が痛くなるほどの静寂が訪れる。やがてその静けさに慣れた耳に、遠くでどさどさっと雪が落ちる音や、森の生き物たちのたてる音が聞こえてきた。

 ――私は普段、なんてさわがしい所に住んでいるんだろう。ここには鎧がぶつかり合う音や、くだらない諍いの音はない。私に頭痛を起こさせる領主たちの言葉も、ここまでは追ってこれない。

 ふいに、このまま雪にうずもれてしまいたいような衝動が湧きあがった。誰もが手と手を取り合って生きる私の理想の世界と、私が築いてきた国は、どうしてこうも食い違ってしまったのだろうか。やってきたことは、間違っていたのだろうか。

 あとからあとから疑問があふれ出しては、体からしみだして雪へとけていく。

 しばらくするとさすがに寒くなってきて、ゆっくりと起き上がった。澄んだ心の中にたった一つ浮かんだのは、「私は王としてなにをなすべきだろうか」という、誰にも答えられない問いだった。

 心の中で問いを持て余しながら森を歩いていると、遠くで動物の気配がした。はっとして弓をかまえ、気配を探る。Asheはやがて遠くに、立派に枝分かれした角を持った、堂々たる体躯の雄鹿を見つけた。

 射るべきか迷いながらも弓弦を引き絞り、じっと雄鹿を見つめると、雄鹿は頭をあげてAsheのほうを見た。その黒い目は氷に覆われた湖面のような静けさをたたえて、問いかけるようにAsheの瞳を見つめている。

 命を奪うことが急にいとわしく思えて、Asheは弓をおろした。雄鹿はぴょんと跳ねて、茂みの中へ消えて行ってしまった。

 結局彼女はその日、獲物を狩ることはせず、森の中で静かに時を過ごした。彼女はそこかしこに生き物の気配のする森を歩きながら、一つの考えが胸に浮かぶのを感じた。

 ――みなが平等であることは、無理だ。豊かな森の中ですら、おいしい木の実のなる場所と、実をつけない茂みばかりの場所がある。そもそも土地が平等ではないのに、どうしてすべてを等しくすることができるだろうか。

 ぼんやりと物思いにふけっていると、やがてピュイ、ピュゥイと、狩りの終わりを告げる口笛が聞こえてきて、彼女はシーラの母の家へ戻った。

「おいおい。お前が獲物なしなんて、城暮らしで腕がなまったのか?」

「違うわよ、なんとなく狩る気になれなかっただけ」

 そんな風に軽口をたたいていたら、トントンと戸をたたく音がした。人が何人も入ってくる気配がして身をこわばらせると、懐かしい顔ぶれが居間になだれこんできた。

「みんな! どうしてここに?」

「そんなもん、お前が帰ってきてるって聞いたからに決まってるじゃねえか」

 そう言って笑う部族の仲間たちの顔は、昔とちっとも変わらなくて、Asheの胸はほっこりと温かくなった。

 その夜は宴会になり、会わない間に雪よりも高く積もった話はとめどなくあふれ続け、Asheは久しぶりに心の底から安らいだひと時を過ごしたのだった。

 

 明け方、家の中の誰よりもはやく目を覚ましたAsheは、腹の上に手を組んで天井を見つめていた。

 王となってから今まで身をおおっていたものが消え去り、冬の凍てつく大気のような透き通った静けさが胸に満ちていた。

 やがてその中に、ぽつんと熱が生まれた。熱はゆっくりと指先まで広がり、じんわりと体にしみわたっていく。

 ――私は、戦などしたくない。

 その思いが、空に冴え冴えと光る星のように浮かんだ。

 ――戦は多くの命を奪う。どんな理由があっても、私は戦を肯定しない。

 久しぶりに顔を合わせた仲間たちや、シーラの笑顔を思い出す。戦をするというのは、彼らや、彼らの家族が戦場に駆り
出され、そこで命を落とすかもしれないということだ。

 ――ならば私は、何度でも和平を申し入れよう。Witer's Crow族や、Frostguard族からの挑発にはのらず、国を守りながら、分かり合えるまで何度でも。攻める側は消耗も大きい。いくら攻めてもビクともしない国を築けば、やがて彼らも諦め、和平を受け入れてくれるかもしれない。

 ――私たちの敵は隣人ではない。敵は法のない土地であり、長く寒い冬の夜だ。法で街を照らし、身を寄せ合うことでこの地の寒さを忍ぼう。そのために私にできることは、どんなことでもしよう。

 そう決めると、不思議と心のうちに力が湧いてくるような気がした。

 Asheは起きだし、そっと城へ戻る支度をした。顔を合わせれば別れがたくなるので、手紙を残して帰るつもりだった。

 足音を忍ばせて玄関へ向かうと、「もう行くのかい」と背中から声がかかった。

「まったく。送りの言葉も言わせてもらえないとは、悲しいねえ」

 そう言ってシーラの母は腰に手をあてて笑ったが、その表情は少し寂しそうだった。
「すみません、顔を見ると出がたくなる気がして……」

 暖炉のようにあたたかなこの家を出れば、Asheが冷たい城暮らしに戻ることを思って、シーラの母は顔をしかめた。それからぐいっとAsheを抱きしめた。

「バカだねえ、そんな一人でなにもかも背負い込んで。あたしら部族は、いつだってあんたの味方さ。それを忘れなさんな。部族のため民のためって、あんたが一人ぼっちになってちゃ世話ないよ」

 その言葉と温かく力強い腕に、Asheは突き上げる衝動を抑えることができなかった。懐かしい匂いに顔をうずめて、彼女は声を出さずに泣いた。そんな彼女の背中を、シーラの母はそっとさすってやるのだった。

 ひとしきり泣いたあと、Asheは身を離して涙をぬぐった。

「ありがとうございます、ずっと心が軽くなりました」

「だろうね、顔色がずっとよくなった。涙は雪解け水さ、一度泣いちまえば心がとけて血がめぐるようになる。さあ、気合いいれていってきな!」

 そういうと、シーラの母はAsheの背中をバシンと叩いた。

「いってきます!」

 そう叫ぶと、Asheは薄青い外の光の中へ飛び出した。

 

 

 地平線からのぞく朝日が、Freljordの凍てつく大地を照らす。

 雄大な自然は人の営みと無関係にあり続けるのだろう。私の命はその中に一瞬浮かんでいるだけの、小さな光の点にすぎない。だけど私は、同じように浮かぶたくさんの小さな光を愛おしいと思わずにはいられない。そしてその光たちに、穏やかに生をまっとうしてほしいと願う。

 もしそれを邪魔するものがあるなら戦おう。剣や弓ではなく、私なりの方法で。

 

 "All the world on one arrow."(世界を一つに)

 
 願いを新たに、Freljordの天と地の狭間を駆けるAsheの銀髪が、朝日を受けてきらめいた。